เพื่อนแท้ของผม

 

2006/09/20

 

เพื่อนแท้ของผม:

ผมมีเพื่อน  2  คนตั้งแต่ชั้นประถมศึกษาปีที่  4

ผมมีโชคที่ใด้โทรศัพบ้านแล้วที่ขอนแก่นในเดือน มิถุนายน  ในปีนี้ 

ดังนั้นผมสามารถเล่นอินเทอร์เน็ทได้จากบ้านของผม

ผมกำลังเขียนเกี่ยวกับเพื่อนแท้ของผมแต่  ผมเปลี่ยนใจ  ผมจะใส่บันทึกอีเมลแก่เพื่อนของผม

ผมคิดว่าอีเมลนี้จะทำให้เข้าใจลักษณะของผมและเพื่อนๆ 

 

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

00:Top Page (Index.htm)(ホームページトップへ戻る)
01:育英社の思い出
02:キャンプの思い出
03:キャンプの思い出(その2)
04:キャンプの思い出(その3)
05:キャンプの思い出(その4)
06:沢見小学校少年合唱団
07:ゲルマニウムラジオ vs トランジスタラジオ
08:潮干狩りの思い出
09:ナップサック
10:海辺の丘の西洋館
11:沢見小学校相撲愛好会
12:ローラースケートの思い出
13:旭グラウンドの思い出
14:明専(めいせん)グラウンド
15:入安居(いりあんご)
16:キャンプの思い出(その5)
17:銘菓「かまど」の思い出
18:旅の終りに
19:親思うこころにまさる親心
20:青空文庫
21:定住と漂泊
22:仏木君に読んでもらうだけで、それで十分幸せです
23:中間考査・期末考査
24:三浦先生(通称チビ太)の思い出
25:戸畑市営図書館の思い出
26:サマースクールの思い出
27:business letter in Sri Lanka
28:海老津のおじいさんの思い出
29:若草山と金毘羅山
30:波津海水浴場


01:育英社の思い出


2006年7月5日

July 5, 2006

 

「育英社」の思い出

Memory of ikueisha

 

私がまだ小学生であったとき、当時の戸畑市小芝町4丁目に位置する、父の勤務する日立金属株式会社戸畑工場の所有する木造モルタル造りのアパート(社宅)に住んでいた。

When I was still an elementary school boy, I lived in an apartment (company's facility) constructed with wood and mortar which is owned by hitachi kinzoku kabusikikaisha tobata koujou where my father was working, located at 4 chome, koshiba-cho, Tobata City.

 

仏木君は沢見小学校の正門に沿っている当時まだ舗装されていない道を、正門を出てから右折してまっすぐ進んだところの右側に位置していた旭ガラスの社宅に住んでいた。

Hotogi lived in a company's facility owned by asahi glass company, located on the right hand side of the small road, which has not been paved yet, after turning right hand side at the front gate of sawami elementary school.

 

南里君は天神町の近くの広い庭のある立派な住宅に住んでいた。

Nanri lived in a marvelous residence with the large garden near tenjin machi.

 

小学校4年生のときからの友達であった仏木君とは、気が合ってよく遊んだ。

I got along with Hotogi who is good friend since the fourth grade in the elementary school, and played well with.

 

小芝町4丁目に育英社という学習熟があって、私は何ヶ月間かこの育英社に通っていた。

There was Ikueisha, private educational company, at 4 chome, koshiba-cho, and I joined to this educational company several months.

 

夏休みになると学校は生徒たちに宿題を与えた。

When summer vacation came, school gave students homework.

 

この宿題は1冊に閉じてあった。

This homework consists only one book.

 

1日に見開き2ページの様々は課題をこなすように工夫されていた。

2 pages of task had to be accomplished in one day.

 

私と仏木君は、朝まだ誰も使用していない鍵のかかっていない、この育英社の建物の部屋に押し入り、午前中の涼しい時間を利用して学校が与えたこの宿題を一生懸命、夢中でこなした。

I and Hotogi came into the study room of ikueisha, which was not locked at all, and we made some effort to finish that home work given by the school, by taking advantage of the cool time in the morning of hot summer day.

 

宿題は夏休みの日数の40日に合せて見開きで40日分用意されていた。

That homework was prepared as 80 pages of spreadsheets in accordance with 40 days of summer vacation.

 

我々は共謀して「早く宿題をすませて、後は好きなだけ遊ぼう」との合言葉のもとに、なんと、ただの1週間で40日分の宿題をすませてしまったのだ。

We accomplished that homework for 40 days only for the time of one week, by calling to each other as  "Let's play later as much as we can, after finishing the task as soon as possible."

 

それから毎日何をして遊んだのかはよく覚えていないが、とにかく仏木君とはよく遊んだものだ。

After finishing our homework, I played well with Hotogi though it is not remembered clearly what we played with everyday.

 

このころの我々の心は今考えても純粋、純真無垢なものであった。

Our heart in those days was very innocent and purely.

 

この懐かしい時代には二度と再び戻ることはできないが、小学生時代に仏木君と仲良く一緒に遊んだ経験は、その後の私の人生の大きな支えとなっている。

Though we can't be returned to the nostalgic elementary school age, the experience that I was good with hotogi and played together is the big support of my life since I entered into harsh society of my life.




戻る


02:キャンプの思い出

2006年7月5日

July 5, 2006

 

キャンプの思い出

Memory of camping

 

小学校5年生のときだったのかなと記憶している。

I remember that was at the time of fifth grade in the elementary school.

 

沢見小学校の中村シマ子先生のクラスの教え子たちであった、南里、松井、仏木、江口は、

Nanri, Matsui, Hotogi and Eguchi were in the same class of Sawami elementary school, being taught by Ms. Shimako Nakamura.

 

古い記憶ではっきりしないが、山口県のなんとかいうダムのほとりでキャンプをすることになった。

It is very old memory and not so clear but I remember we were going for a camping tour at the camp site in Yamaguchi prefecture, just adjacent to a dam, which name is not clear at all.

 

ダムの水面よりかなり高い場所に位置する小高い丘の上の見晴らしの良い場所にテントを張った。

We made a tent at top of the hill where is rather high from the surface of the water in dam. We could see good view of the dam from this point of tent.

 

日没後すぐにあたりはまっ暗、空には今まで見たことのないような満点の星。

Soon after the sunset, we saw the dark sky occupied by a large number of stars which I had never seen.

 

感動的なシーンであった。

It was quite an impressive scenery.

 

事件はこの直後発生した。

The incident happened right after this.

 

突然江口がテントの中で将棋をしたいと言い出した。

All of the sudden, Eguchi said that he wanted to play shogi in the tent.

 

残りの3名は美しい星ぞらを堪能していたので江口の申しでを断った。

Because We were satisfied with beautiful stars in the sky, the rest of three rejected  Eguchi's proposal.

 

南里が「星をみる会をやろう」と言った。

Nanri said "Let's enjoy ourselves to watch beautiful stars in the sky tonight."

 

残りの2名は南里の意見に賛成した。

The rest of two agreed with Nanri's suggestion.

 

牛乳瓶の底のような厚いレンズの眼鏡をかけている江口はふてくされていた。

Eguchi, who wore his glasses with thick lens as bottom of milk bottle, was discontented and rude in his attitude.

 

江口は一人でテントの中で先に寝てしまった。

Eguchi slept alone in the tent first.

 

残された3名は2時間ほど、満点の星の美しさにみとれていた。

The left of three were gazing at beauty of the stars fully occupied in the sky for about two hours or so.

 

目をこらしていると、流れ星。

When we keep an eye onto the sky, there are shooting stars.

 

地球の軌道にそって、一瞬だけ時折天空に現れる美しい流れ星の軌跡。

 We were watching movement of the beautiful shooting star, which sometimes, but only for few moments, appears in the sky along the line of orbit.

 

我々3名は、時の経つのも忘れて、この美しい天空の織り成す芸術にみとれていた。

We, three guys, forgot the time passing, and just watching the art of those beautiful skies in the dark.

 

翌朝江口は朝早く一人で歩いて帰ってしまった。

Eguchi came back home walking alone in the early morning next day.

 

江口には気の毒なことをしてしまったと思ったが、昨夜はテントの中で将棋をさす気には、どうしてもなれなかった。

Though I thought that we made Eguchi unhappy, I couldn't feel like to play shogi in the tent last night.

 

私はこの夜見た美しい流れ星たちの姿を一生忘れないだろう。

I couldn't forget the beautiful shooting stars that I saw at that night in my life.

 

 

 

戻る


03:キャンプの思い出(その2)

2006年7月5日

キャンプの思い出(その2)(今回は敬称略にて失礼します)

中学1年生の夏休みのキャンプを思い出しながらこの文章を書いている。
南里、松井、仏木はこの夏休みは、これも記憶がはっきりしないけれども、
山口県かなにかにある角島(つのしま)という島でキャンプをすることになった。
特牛(こっとい)という妙な名前の駅に到着した我々は角島に向かった。
不思議なことに船に乗って島に渡った記憶が全く無い。
キャンプをする小さな島の草原には牛が放牧されていて、牛は無心に草を食べていた。
キャンプ場は一面汚い牛の糞で覆われていて、それがまだ固まってなくて、
汚い黒いカレー状に点々と散乱していた。
我々3名は牛の糞を注意深くよけながら、海の見える、見晴らしの良い場所にテントを
設置した。
海はまだ全く汚染されていなくて大変きれいなものであった。
島の周囲の海は、すぐに深くなっていて海水浴にはあまり適してはいなかった。
それでも波が全くなかったので我々は深い海の上で遊ぶことができた。
南里が小さなゴムボートを持参してきたのでそれを海の上の丁度我々が遊ぶ場所の海面に
浮かべて、海に潜っては浮かびあがり、ゴムボートにつかまって休憩した。
海底には適当な大きさの石がごろごろしていて、私は海底まで潜っては、適当な大きさの
石をつかんで体が海面にすぐに浮かびあがらないようにして、水中で遊んだ。
夕方みんなで手分けして飯盒でごはんを焚いて、おかずはカレーライスをつくった。
あんなにたくさんの牛の糞の中で食べたカレーライスは、不思議なことに美味しかった。
テントはいつも南里がよいものをもっていたので、残りの2名は飯盒と食材だけ持参すれば
それですんだ。南里には何かとキャンプの道具の調達をお願いして、いまでも感謝している。
40年以上も前の出来事なのに断片的ではあるが鮮明に私の記憶に今も残っている。

戻る


04:キャンプの思い出(その3)

2006年7月6日

今朝メールを仏木君より受け取るまで 「豊田湖の江口事件」 は小学校のときであったと
勘違いしていました。よく考えてみればあれは小学校の時ではなく、中学校に入って
からの出来事であったと理解できました。小学校のときには子供達だけでキャンプの
経験はありませんでした。なんだか江口君と中村シマ子先生のイメージがしっかりと
結びついていて、それで小学校5年生のときだと勘違いしました。江口君には全く
気の毒なことをしましたね。でもあの薄暗いテントの中で将棋をやれば目を悪くしますね。
それで江口君はあの黒ぶちの牛乳瓶のように厚いレンズのついた眼鏡をかけていたのでしょう。
あんな何でもないことから人間関係が悪化するとは、予想もしていませんでした。
江口君にもしもう一度会う機会があったら、「すなおにごめんなさい」と言うつもりです。

キャンプの思い出(その3)

足立山(小倉区?)のふもとの溜池の前でキャンプ

これも中学生時代の思い出。
南里、仏木、松井は3人で足立山のふもとの溜池の前でキャンプをすることになる。
記憶違いかもしれないが、たしかこの溜池の近くには墓場があった?どうも記憶が
さだかでない。
南里君の父方もしくは母方のおじいちゃん、おばあちゃんの家が足立山のふもとの
この溜池のちかくにあったので、我々3名はこの溜池の土手の上でキャンプをすることに
なった。キャンプ場でもなんでもない、およそキャンプには不向きな、なんのキャンプの
ための設備も整っていない、ただの溜池のほとりでキャンプをした。
それでも3人いればなんとか楽しく時間を過ごすことができた。
水もなかったので確かおじいちゃんのうちからポリタンクかなにかをかりて水を運んだ。
燃料の薪がなかったので3人で森の中に落ちている枯れ枝を集めて、
持ってきた新聞紙に火をつけて、それでようやく火をおこすことができた。
飯盒でご飯を焚き、おかずは毎度毎度おなじみのカレーライスではなかったと思う。
我々はあまり清潔といえない濁った溜池の中に入って泳いだりして遊んだ。
溜池の底には柔らかい泥が赤土が堆積していて、あまり気持ちの良いものではなかった。
遊んでいるうちに南里君が赤土の中に混じってたガラスのかけらかなにかで足の裏を切って
出血した。私はハンカチで南里君の足首を硬くしばって止血してから消毒した。
キャンプの翌朝、南里君のおじいちゃんが心配して我々の様子を見にやってきた。
おじいちゃんいわく「うんこはどこでしたのか?」
まったく変なことを長いこと覚えているものだ。

戻る


05:キャンプの思い出(その4)

2006年7月6日

キャンプの思い出(その4)

国東半島一周キャンプ旅行計画 (1泊2日で挫折)

これも中学生のときではなかったかと思う。
冬休みでは無かったと思うが、多分夏休みでは無くて春休みか何かのまだ寒い時期であったと思う。
我々は自転車での国東半島一周のキャンプ旅行を計画した。
南里君は寒いので「ヤッケ」が欲しい、欲しいと連発していたが、この頃の私にはヤッケなるものが
何であるのか皆目見当もつかなかった。
キャンプ旅行への出発がさしせまったある日、南里君の父上は南里君と私とを(多分仏木君も一緒に)
小倉区の大丸か岩田屋か何かのデパートに「ヤッケ」を買いに連れていってくださった。
私はデパートでカーキ色のヤッケを初めて見て、なるほどこれがヤッケというものかと思った。
防風のためのフードもついていて頭からすっぽりとかぶる登山用の衣服であった。
当時の800円か900円もする高価な衣服であったが、南里君の父上は車でわざわざここまで
買いにきたので値引きしてくれと、デパートで値引きの交渉を始めた。結局デパートに50円
まけさせてヤッケは無事南里君のもとにやってくることになった。
私はいままで(当時の私で13歳か14歳のときまで)南里君の父上のような話し方をする人を
みたことがなかったので、いまでも強烈に私の脳裏に刻み込まれている。

いよいよ国東半島一周キャンプ旅行の出発日を迎えた。
我々は交通量の多い日中をさけて、夜、国東半島まで自転車で走ることに決定した。
出発の夜南里君の下曽根の足立山の麓の家に集合した3名は、南里君の母上の手作りの餃子で
腹ごしらえした。豚肉のミンチの中に野菜や椎茸が刻み込まれている美味しい餃子を、それはそれは
たくさんこしらえていただいて我々はこの美味しい餃子ですっかり満腹してしまった。

食事の後、いよいよ国東半島を目指して出発。
国東半島は思ったより遠かった。
深夜中津市のはずれの畑の休耕地でキャンプすることになった。
天候が崩れて雨模様。
我々は大急ぎでテントを設置してテントの中で仮眠した。
テントの周囲は雨に備えて簡単な溝を掘っておいた。
すぐ、天気は崩れ大雨に加えて強い風まで我々を容赦なくおそった。
テントの周囲に掘っておいた溝には、雨の水が一杯たまっていて、溝の外に溢れ出していた。
テントにはフライシートが設置されていなかったので雨はテントの生地を通して
容赦なく染み込んできた。
我々3名は体を寄せ合って、小さくまるまって自転車で疲れた体を休めながら朝を待った。
長い夜だった。

翌朝食事の支度もできず(キャンプ場のような設備がないので当然であった)、
そのまま中津の市内まで自転車を進めたが疲労感と空腹感で我々の国東半島一周計画は挫折の
一歩手前にあった。
中津市内の駅前の食堂で食べたご飯はあまりにもおいしく、私は食べながら思わず微笑んでしまった
のを覚えている。

それから、我々は今回は国東半島一周のサイクリング計画を中断し、撤退する決断をした。
私はくやしさで胸がいっぱいになり、深夜の国道を泣きながら自転車をこぐことだけに
心を集中させていた。

国道から南里君の家に右折する交差点で私と仏木君は、少し遅れて走ってきている南里君を待った。
南里君に別れを告げた後、私と仏木君と戸畑に向かって自転車を進めた。戸畑に到着するころには
夜のとばりはすっかりなりをひそめて、さわやかな朝の空気に満ち溢れていた。

戻る


06:沢見小学校少年合唱団

2006年7月7日

           | |■仏木君の小学生時代の家(旭ガラス社宅)
           | |      ■プラモデル店(光?)
----------------------- -------------------------------
 ←至 天神町  →この大きな道路だけコンクリート舗装されていた?(記憶違いかも?)
----------------------- -------------------------------
 ■    ■     | |■沢見小学校
平凡  天神東映   | |
(お好み焼き屋)   | |
           |↑|←この道路はまだ舗装されてなくて砂利道だった
           | |
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
           | |■沢見中学校
           | |
           | |
           | |
           | |■黒田?公園(確か黒田公園と呼ばれていた?)
           | | (この公園で我々は日が暮れるまでよく遊んだ)
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
           | |
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
    ■育英社   | |    ■日立小芝町社宅(松井の小学生時代の家)
           | |    (村田和文君「日本最古の木造建築物」と評す)


沢見小学校少年合唱団(少女もいたかも。。。記憶がどうもはっきりしない)

我々が小学校4年生か5年生のときではなかったかと記憶している。
小学校の児童たちの合掌コンクールが当時の戸畑市の文化ホールというところで
開催されることになった。
沢見小学校の中村シマ子先生のクラスからも2名選ばれてこの合唱団に参加した。
正確に回想すると、
中村先生から選ばれたのか、無理やり押し付けられたのか記憶が定かではないが、
とにかく、仲のよい私と仏木君とが中村先生のクラスの代表として、この新しく作られた合唱団
に参加させられていた。女子はいなかったように思うが、私の記憶違いかも知れない。
この合唱団を指導する先生は2名の女性の先生たちで、ひとりがヒステリックな
おばさんタイプの先生、もうひとりがもう少し若い先生でピアノの伴奏を担当していた。
この合唱の練習はかなり長い期間(1ヶ月か2ヶ月の間)続けらていた。
練習のさなか、おしゃべりに夢中になっていた私と仏木君とは、このヒステリーの
おばさん先生に怒鳴られ、それから、後ろの方に立たされてしまった。
でも、立たされたのはこの1回のみで、残りの時間は話に夢中になっていても、
叱られることはなかった。
練習の最中この先生はよく飴をくれた。よい声が出るようにとの配慮であった。
飴はいまでも売られている白い飴でほのかに米ぬかの香りがするあの懐かしい飴であった。
文化ホールでの本番前にも、この飴をなめたあとに、コンクールに参加したが、
コンクールでよい成績をあげることが出来たかどうか、私の記憶からは全く
かきけされている。
ただ沢見小学校の鉄筋コンクリートの校舎の一番端に位置していた広い音楽室で、
仏木君とよく遊び、また合唱の練習にうちこんでいた時代を懐かしく思い出している。

灯台守(とうだいもり)という二部斉唱の歌があったのを思い出した。
凍れる、月影、空に冴(さ)えて
真冬の、荒波、寄する小島(おじま)
思えよ、灯台、守る人の、
尊き(とうとき)、優しき、愛の心

戻る


07:ゲルマニウムラジオ vs トランジスタラジオ

   2006年7月7日

           | |■仏木君の小学生時代の家(旭ガラス社宅)
           | |
           | |      ■プラモデル店(光?)
----------------------- -------------------------------
 ←至 天神町  →この大きな道路だけコンクリート舗装されていた?(記憶違いかも?)
----------------------- -------------------------------
 ■    ■     | |■沢見小学校
平凡  天神東映   | |
(お好み焼き屋)   | |
           |↑|←この道路はまだ舗装されてなくて砂利道だった
           | |
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
           | |■沢見中学校
           | |
           | |
           | |
           | |■黒田?公園(確か黒田公園と呼ばれていた?)
           | | (この公園で我々は日が暮れるまでよく遊んだ)
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
           | |
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
    ■育英社   | |    ■日立小芝町社宅(松井の小学生時代の家)
           | |    (村田和文君「日本最古の木造建築物」と評す)
      

ゲルマニウムラジオ vs トランジスタラジオ

小学生時代の話。(確か小学校4年生か5年生のときの話?)
仏木君はそのとき空色の美しいプラスチック製のゲルマニウムラジオをもっていた。
近くのプラモデルの店、名前は確か「光」(名前は私の記憶違いかもしれない)と
いう店から仏木君が仏木君のご両親に買ってもらったものであった。
私はこの美しいゲルマニウムラジオがどうしても欲しくなり、私の母親に泣きついた。
このゲルマニウムラジオ、価格は当時の価格で950円もする高価なものであった。
当時の父親たちの月給が2万円に満たないような時代であったので、
現在の価値にすると1万円以上の価値があったのではないかと記憶している。
私は母親から1000円をもらって、母親もしくは仏木君とこのプラモデル店を訪ねた。
店には仏木君の持っていた美しい空色のゲルマニウムラジオと同じものの他にも
何種類か別の機種が飾られていた。
私は一ランク下の価格のゲルマニウムラジオを買うことにした。
850円くらいの価格でありほとんど値段的には変わらなかったが、
それでも少しでも安いものを買い、母親にはできるだけ負担をかけたくなかったのだ。
小芝町のアパートに帰ってから、注意深く箱からゲルマニウムラジオを出して、
意気揚揚とイヤホーンを耳にさしこんだ。
ところが仏木君の空色の美しいゲルマニウムラジオに比較して、
音がよく聞こえない。同じようにワイヤーのアンテナがついていたので、窓のところの
雨とい(ブリキ製)にアンテナをさしこんで、音を確認したが、どうも、
仏木君のゲルマニウムラジオのように鮮明な音が聞こえてこない。
私はすぐ母親に相談して、仏木君のもっていた空色のゲルマニウムラジオと同じものに交換してもらう
ことにした。箱やプラスチックバッグ(ビニル袋)を傷つけないように注意して、もとのように
今買ってきたばかりのゲルマニウムラジオを梱包してから、これまた、さっきもらったばかりのおつりを
にぎりしめて、プラモデル店に走った。店のご主人は快くゲルマニウムラジオを交換してくれた。
今度は仏木君のゲルマニウムラジオと同じように鮮明な音が私の耳の中に溢れていた。
それからしばらくしてから仏木君はご両親から1石(いっせき)か2石(にせき)の
トランジスターラジオを買ってもらった。大きさはもとのゲルマニウムラジオより少しだけ大きなものであった。
中には単3(たんさん)の乾電池が1本か2本入っていた。
このトランジスターラジオには引き伸ばしができるロットアンテナがついていて、
仏木君はこのロットアンテナを一杯に伸ばし、耳にイヤーホーンを突っ込んで、
それから勢い良く走りだした。「みて、松井君、こんなに走っても音がはっきり聞こえるよ。」
仏木君は私にも、耳にイヤーホーンを突っ込んで走ってみるようにうながした。
流れてきた音は私が今までゲルマニウムラジオでは聞いたことのない、大きな鮮明な音声であった。
仏木君は有頂天であった。「ほんとうによく聞こえるね」 と 何回も音を確認しあって
遊んだ。
私はこの仏木君の新しいトランジスターラジオも素晴らしいなと思ったが、それよりも、
電池も電気も使わないで、半永久的に使用できるゲルマニウムラジオを手に入れることが出来て
大変幸せであった。
「どうして電気をまったく使わないでも音を聞くことができるのか?」 当時の私に
とってはまったく不思議な世界であった。

戻る

  
08:潮干狩りの思い出

   2006年7月8日
           | |■仏木君の小学生時代の家(旭ガラス社宅)
           | |
           | |      ■プラモデル店(光?)
----------------------- -------------------------------
コンクリート舗装されていた?(記憶違いかも?)
----------------------- -------------------------------
 ■    ■     | |■沢見小学校
平凡  天神東映   | |
(お好み焼き屋)   | |
           |↑|←この道路はまだ舗装されてなくて砂利道だった
           | |
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
           | |■沢見中学校
           | |
           | |
           | |
           | |■黒田?公園(確か黒田公園と呼ばれていた?)
           | | (この公園で我々は日が暮れるまでよく遊んだ)
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
           | |
----------------------- -------------------------------
----------------------- -------------------------------
    ■育英社   | |    ■日立小芝町社宅(松井の小学生時代の家)
           | |    (村田和文君「日本最古の木造建築物」と評す)

                    
潮干狩りの思い出

私が小学校4年生か5年生のある日、仏木君の家族4人は門司の調布に
潮干狩りに出かけることになった。
仏木君の家族に私は参加させてもらい、一緒に調布まで潮干狩りを楽しむこととなった。
仏木君と一緒にアサリ貝をたくさん掘りながら、コンクリートの防波堤の上でおにぎりを
食べた。
今でも北九州の実家には仏木君と一緒に防波堤の上で仲良く写っている白黒の写真が
残っている。
とても懐かしい思い出だ。
それからしばらくしてから、私の父の勤める日立金属株式会社戸畑工場で
行橋かどこかの海岸に潮干狩りの小旅行が企画された。
私は父親にお願いして仏木君もこの潮干狩りに参加できるようにしてもらった。
大きなバスが何台もやってきて、我々は小さなバス旅行を楽しむことができた。
バスの中で私は仏木君と「灯台守」を2部斉唱した。
私が低音部、仏木君が高音部を歌った。
仏木君はまもなく変声期をむかえるところで、灯台守の高音部を苦しそうに歌っていた。

凍れる、月影、空に冴(さ)えて
真冬の、荒波、寄する小島(おじま)
思えよ、灯台、守る人の、
尊き(とうとき)、優しき、愛の心

戻る


09:ナップサック

2006年7月8日

ナップサック

昔、我々がまだ学校に通っていたころナップサックという便利な
袋があった。(中学生時代〜高校生時代?)
ナイロン製の、薄いがきわめて丈夫なそれでいてかさばらない、口のところを
ナイロンの紐で結ぶようになっている便利な簡易リュックサックである。
肩紐を肩にかけて片側の肩にかけることも、
リュックサックのようにして後ろにかつぐようなこともできた。
色は圧倒的に黒が多くて、その他の色はあまり見かけなかった。
我々はこのナップサックの中におにぎり、弁当、お菓子、などを
つめて遊びに出かけた。
ナップサックの中がからになると、ズボンのポケットにも入るような
きわめて薄い、かさばらない、便利なグッズであった。
このナップサック、自転車でのサイクリングのときにも、大いに威力を発揮した。
今の若い人は昔のナップサックではなくて、もう少し立派な
デイバッグを背中にしょっているが、
私は昔よく利用したあの黒色の便利なナップサックをとても懐かしく感じている。
私の父親はこのナップサックを「ズダブクロ」と評していた。

戻る


10:海辺の丘の西洋館
2006年7月8日

海辺の丘の西洋館

沢見小学校2年生のときの国語の本に「海辺の丘の西洋館」という
題名の詩が掲載されていて、我々生徒たちは学校の宿題として
この詩を暗記するように命じられた。
私はこの詩がえらく気に入り、すぐに全部暗記してしまった。
小芝町のアパートであまり何回も音読を繰り返していたので
私の父親もこの詩を憶えてしまったほどである。
この詩は1番から3番までで構成されていたが、
いま私の記憶に残っているのは
1番のみである。

1番:

海辺の丘の西洋館

しまったままだよ、あの窓が

コスモス、コスモス、花ざかり



仏木君か南里君、2番、3番の詩、憶えていないかなー?

戻る


11:沢見小学校相撲愛好会

2006年7月8日

沢見小学校相撲愛好会

私が小学生2年生くらいのときに木造の沢見小学校は生徒の放火
により全焼した。小学校4年生から卒業するまでの3年間は中村シマ子先生の
クラスに属していたが、小学校4年生のときにはすでに新しい鉄筋コンクリート
の校舎に移っていたと記憶している。

鉄筋コンクリートの校舎の一階の踊り場で、体育館につながっている
場所があったが、昼の給食のあとの時間は毎日4−5人の男子が
ここに集まって相撲をして遊んだ。

岩崎は体が大きくて、この相撲愛好会の横綱であった。
私も岩崎には何度も挑戦したが、勝てたのは数回しかない。
朝田和夫は体が大きいだけで相撲はからっきし弱かった。
私は朝田にはいつも勝っていた。
白井もそんなには強くなかった。
佐伯心高(さえきむねたか)はカエルをひっちゃぶしたような独特な
体勢で相撲をとるのが好きであったが、足腰がしっかりしていて、
私は佐伯には勝つことは勝ったが、私も息が上がり苦しい思いをした。
佐伯は中本町かなにかのお寺の住職の息子さんであり、いまごろは
僧職につかれているのではないかと推察する。
佐伯の家には何度か遊びに行ったことがあるが、
お寺のあの独特の雰囲気になじまず、長居をすることはなかった。

南里君はこの相撲愛好会には参加していなかった。
不思議なことに仏木君の相撲愛好会での思い出が私の
記憶がらまったくかき消されている。
仏木君も一緒に相撲をして遊んだような記憶がうっすらと
残っているが、他の思い出のように明瞭でない。

戻る


12:ローラースケートの思い出

2006年7月8日

ローラースケートの思い出

沢見小学校の5年生のころの思い出。
校内に流行性感冒(インフルエンザ)が流行り、沢見小学校も
感冒の拡散を防ぐために学校閉鎖か学級閉鎖がなされた。
私と仏木君とは、このラッキーな臨時休校に小躍りして
当時大好きだったローラースケートで遊ぶことになった。
当時のローラースケートは今のローラースケートとまったく
違っていた。今のは立派なシューズに大きなプラスチックの
車輪がついているが、当時のやつは運動靴の下に直接とりつけるようになっていて、
金属製の足を載せる台に、これまた金属製の車輪がとりつけられているもので
あった。この足台は足の大きさに応じて伸ばしたり、縮めたりすることが
できるようになっていた。
金属製の足台には運動靴に固定するための皮紐がそれぞれ
2本づつ取り付けられていた。
我々二人は夜宮の池の脇の小高い丘の上にある慰霊塔に集まり
納骨堂の前の大理石の広間でローラースケートをした。
遊んでいる最中に、知らないおじさんが来て、注意されたりしたが、
我々の遊びを阻止するほどの強い口調ではなかった。
おじさんがいなくなると、我々は心行くまでローラースケートを楽しんだ。
大理石の上面は大きな碁盤状に仕切られていて、2メートル四方の大きさの
大理石の周囲は、幅約15センチメートルくらいの帯状の玉石の洗い出しにて
施工されていたが、この玉石の部分が邪魔をして、それほどスピードを
出すことはできなかった。
納骨堂の前面は鉄製のシャッターで閉じられていた。
我々はまったく無邪気であり、納骨堂の前でローラースケートをすることに
なんの躊躇もなかったが、納骨堂の中に葬られている方々は、
うるさくてよく眠れなかったのではないかと思っている。
ごめんなさい。

戻る


13:旭グラウンドの思い出

2006年7月9日

旭グラウンドの思い出


        ■旭グラウンド管理事務所(旭ガラス所有)
+++++++++++++++++++++
+          +
+          +
+          + 旭グラウンド
+          +
+          +
+++++++++++++++++++++
←至 小倉
+++++++++++++++++++++

  ■九州工業大学

小学生のころ、上の略図の旭グラウンドで何回かソフトボールをした。
ソフトボールをやるには多くの子供達が集まる必要があった。
私はこのソフトボールはあまり好きではなかった。
子供達でもソフトボールをするときには、勝負にこだわり、
楽しく遊ぶというような雰囲気ではなかったと思う。

仏木君の父上が旭ガラスの戸畑工場に勤務していたので、
仏木君の名前をあかすことで、我々は旭グラウンドの
管理事務所内(確か2階だった)に設置されている
数台の卓球台を使用することができた。
ソフトボールとちがって別に勝負にこだわることもなく
我々は無邪気に長い時間遊んだ。
仏木君はこれがシェイクハンドの握り方だと、かわった持ち方
で卓球のラケットを不器用なしぐさであやつっていた。
この管理事務所のバルコニーから見る景色は素晴らしかったのを
今でも憶えている。
周囲は樹木(松林)で覆われていて、周囲の空気
までさわやかなものであった。
kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


14:明専(めいせん)グラウンド

   2006年7月9日
明専(めいせん)グラウンド


          ■火のみやぐら(鉄筋コンクリート造りの高い塔)
       ■時計塔
+++++++++++
+     +
+     +
+     +
+     +明専グラウンド(九州工業大学)
+     +
+     +
+     +
+++++++++++
■小芝町側入り口


私が住んでいた小芝町のアパートより徒歩でもわずかな時間で
この明専(めいせん)グラウンドの小芝町側の入り口に
到着することができたので、毎日のようにこのグラウンドに
やってきて遊ぶのが日課であった。
このグラウンドには鉄筋コンクリート造りのアーチ形をした
古い時計塔と、高い高い塔(火のみやぐら)があった。
時計塔を登ることはしごく簡単なことであった。
鉄製の階段がとりつけられていたので、この階段を利用して、
簡単に昇り降りすることができた。
問題は火のみやぐらのほうであった。
私は実はこの火のみやぐらを登るのが恐くてしかたがなかった。
この火のみやぐらには、鉄製の簡単な梯子がとりつけらているだけで、
しかもこの鉄の梯子はひどく腐食していた。
女子は、さすがにこの火のみやぐらに登るものはいなかったが、
男子(当時のワルガキども)は、自分たちの勇気を誇示するために、
競ってこの火のみやぐらに登った。
私も内心は恐くてしかたがなかったのだが、それを悟られるのを
恐れて、この火のみやぐらに、慎重に登った。
火のみやぐらの上からの景色は抜群であったが、もう一度
恐い思いをして下まで降りていかなければならないことを
考えると憂うつになった。
仏木君もこの火のみやぐらには登った経験があるのでは
ないでしょうか?
私の記憶からは、まったくかき消されていますが。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る

  
15:入安居(いりあんご)

   2006年7月11日

入安居(いりあんご)

タイの仏教の中で比較的大きな行事である入安居が7月10日と11日の二日間、
私がチャイヤプーム県に建設した家のある村のお寺で行われた。
私は特に敬謙な仏教徒というわけではないが、タイ国の中で生きようとすれば
仏教の行事に参加するのは当然の義務であり、この国で生残るための重要な
手段となっている。
入安居はタイ語ではカオ パンサーと呼ばれている。
入安居の発祥の地はお釈迦さま(ゴータマ シッタルータ)の生れたインドで
仏僧は雨季の間約3ヶ月間、外出を控え、お寺にこもり修行に専念する。
私のこのチャイヤプーム県の村の住人はこぞって貧しい。
この貧困の中でも、人々は明るく、のびのびと暮している。
こんなに貧しいのに、入安居の日には、こぞってお寺に参拝し、
競って寄進(寄付)を行う。
食べるものも十分にないような状況の中でも、驚くほど熱心に寄進を行う。
私も日本人として、できるだけのことはするつもりでいる。
金持ちの日本人がけちなまねはできない。
4年ほど以前には、この村のお寺の別棟を新築したが、私はこの
お寺の屋根の部分を寄進した。
お寺の建築資金が底をつき、このお寺の住職が私に助けを求めてきた。
私は心の中では、もったいないな、と思ったが、
表情にそれがでないように気をつけながら、この住職の申し出を受入れた。
それで、このお寺の別棟には、無事屋根を取付けることができたのだ。
私の村の周辺の村にもアメリカ人やヨーロッパ人が何人が住んでいるが、
お寺の行事に参加する人は皆無である。
村人たちは口をそろえてファラン(タイ語で白人社会よりタイ国にやってきた人々)
はキーニアオ(けちんぼう)だと罵っている。
あと3ヶ月したら、今度は出安居(であんご:オーク パンサー)の行事があり、
そのあとには、灯篭流し(ローイ クラトーン)がやってくる。
一年を通してタイ国の仏教行事がとぎれることはなく、この国の国王といえども
重要な仏教行事にはきまって参加している。
タイ国の国王のお名前はプミポーン アドンヤデートといわれる。この国王は敬虔な仏教徒であり、
かつ抜群の能力を有するシビルエンジニアー(土木技師)でもある。
タイ国の各地にはこのきわめて優秀な国王がつくられたダムが数多くあり、
人々は深い尊敬の念と感謝の心をもって、この国王に対している。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


16:キャンプの思い出(その5)

2006年7月17日

キャンプの思い出(その5)

戸畑高校には南里、仏木、松井の3人そろって入学できた。
高校の3年間にはいろんなことがあったが、
3人とも無事卒業することができた。
仏木君と私は卒業後すぐに大学へと進学したが、
南里君は福岡大学に進学するまでに、さらに3年間受験勉強に
あけくれていた。
この時期の南里君の動向については、私はよく知らないが、
多分どこかの進学塾かなにかで勉強したのではないかと思う。
この受験勉強の3年間は南里君にとっては、彼の人生の中でも
大変に苦しい時期ではなかったのかと思う。

仏木君は大学に進学してからすぐにホンダの N-360 という
軽自動車を手に入れていた。
夏休みに大阪から北九州に帰省するときに、この軽自動車を
運転してはるばる500kmの道のりをやってきたのだ。
大学の1年か2年かはっきりと憶えていないが、
ある夏休みに、仏木君と私はこのN-360でキャンプ旅行をした。
確か1日目は山口県の秋吉台の付近、2日目が北九州市の
すがおの滝のキャンプ場ではなかったかと、記憶している。
すがおの滝のキャンプ場では、小学生のグループがキャンプをしており、
夜にはフォークダンスが行われた。
我々は小学生の女の子たちと「マイムマイム」や「オクラホマミキサー」を一緒に踊ったりして、
結構楽しい時間をすごすことが出来た。
ギターを持ってきていて、非常に下品な歌を作詞作曲したりして
遊んだ。
川の水はまだ汚染されていなくて、冷たくて、暑い夏の1日を
涼しくすごすことができた。
流れてきた黄色の瓜をいままさに食べようとしたときに、
瓜の持ち主が追いかけてきて、はずかしい思いをしたりしましたね。

山口県の海のすぐそば、確か萩(はぎ)という場所ではなかったのか?
この海のすぐそばには、山の岩場をくりぬいたトンネルがあり、
わたしはこのトンネルを長いこと、「あおのどうもん」と勘違いしていた。
「あおのどうもん」は大分県の山国川のほとりにある、ある和尚さんが
手作業でくりぬいたトンネルだったのです。
インターネットにある文庫本が閲覧できるフォーラムがあり、
私はここで、菊池寛の「恩讐の彼方に」という小説(戯曲)を読み、
はじめて「あおのどうもん」がどこにあるのか、理解できたのです。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


17:銘菓「かまど」の思い出

2006年7月17日

銘菓「かまど」の思い出

小学校6年生のときに仏木君が突然香川県の坂出市に転宅
することになった。
仏木君の父上が北九州市の多分牧山か枝光あたりにあった
旭硝子の工場より、香川県の坂出市の工場へ転勤すること
になったからだ。
私は親友の仏木君が遠く離れた四国に行ってしまうのが
淋しくて仕方がなかった。
仏木君が四国に行ってしまえば、もう一緒に遊ぶことが出来なく
なるのだ。
仏木君の当時の社宅には犬が一匹つながれていた。
仏木君はこの犬の名前は「コロ」、ひろって来てから3年7ヶ月
もたっている、と言った。
多分コロは枝光で仏木君が拾ってきて、育てていたのではないかと思う。
当時の私の小芝町のアパートでは犬を飼うことはできないのは知っていたが、
私は父親と母親に泣きついて、コロをひきとることにした。
小学校6年生の3学期には運よく小芝町の狭いアパートより
中原の鉄筋コンクリート造りの集合住宅「望洋壮」に引っ越すことが
出来たので、コロを大事に育てることができた。
コロが小芝町のアパートに来た当初は、朝まだ夜の明けぬ時間から
アパートの部屋の窓の下で、
クーン、クーンと鳴いて、私はまだ真っ暗の中、コロを連れて散歩を
させたりした。
仏木君が香川県坂出市に引越ししてから、すぐに、
小芝町のアパートに仏木君から銘菓「かまど」が郵送されてきた。
大きな立派な箱に入っている、上品な味のかまどを
家族全員でありがたくいただきました。
この頃の私にとっては、まだ、
この先に発生する、我が家の「コロの毛達磨地獄」については、
まったく想定外の事項ではありました。

教訓「犬は座敷で飼うべきではない」

大学1年のときにコロが死んでから、数ヶ月の後には
このコロの毛達磨は、うそのように、
跡形もなく消えてしまいました。

今でも私の心のどこかにコロは住んでいます。
ほろ苦い、忘れがたい思い出です。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


18:旅の終りに

2006年7月18日

旅の終りに

どんなに楽しい旅であっても、終りのない旅はない。
また、どんなに苦しい旅であっても、終りのない旅はない。
どんな種類の旅であっても、終りはかならずやってくるのだ。
旅は人生の縮図であるともいえるし、
旅とは実は人生そのものだということもできる。

私は35才のときから海外の仕事、主に政府の無償援助関係の
仕事をする部署で働くように命じられた。
海外の仕事が下火になって、日本に一時帰国していて、
日本のあまり魅力のない仕事にまわされた時期にも、
私は、
春のゴールデンウィークと夏の盆休み、冬の正月休暇には、
もしこの時期に日本にいれば、かならず海外旅行にでかけた。
この海外旅行を堂々と、会社になんら気後れすることなしに、
毎回行うには、かなりの努力が必要であった。

海外の仕事を契機に、私はパソコンを導入した。
ソフトは表計算のロータス123の米国版(日本ではまだ発売されていなかった)
と、cad (computer assisted design) プログラムであり、cad は ニフティーの
jwc forum から無償で供給されている jwc cad をダウンロードして、
パソコンを使用した製図システムの技術を習得した。
製図についてはドイツのロトリング社から発売されている
A3 サイズ専用の小さなドラフターを購入して、
これを長いこと愛用していたが、作業能率の向上には
限界を感じていた。それでもこのドラフターを使用して
普通の社員よりは速い仕事ができていた。

ロータス123とjwc cad の威力はすさまじかった。
何の仕事をするのかにより作業効率の向上の率は異なっていたが、
私はこの2本のソフトをベースにして最大で普通の社員の10倍の
スピードで仕事をこなす技術を習得していた。
この技術の習得以降、会社は私になにも言わなくなった。
海外旅行にも胸を張って出かけることができるようになった。
もちろん海外旅行の出発前には、それなりの準備が必要で
眠る時間を削って準備に当てた。
休みといっても建設会社の実体は、実際には会社に
のこって作業をしている人もたくさんいたのだ。
現在では多少ましになっているが、基本的に
建設会社の体質は全く変っていないといえる。
建設会社の管理の基本は社員に自由な時間を与えないこと
ではないかと思ったほどだ。

現在ではロータス123はマイクロソフト社のエクセルにとって
かわられ、jwc cad は auto cad にとってかわられてしまっているが、
ロータスのデータはエクセルでも使用できるし、
jwc cad で作成した図面は auto cad にも変換できるように
なっている。
ロータスもjwc cad も現役で使用に耐えうるソフトウェアだと
いうことができます。

硬い話しになって、すみません。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


19:親思うこころにまさる親心

2006年7月19日

親思うこころにまさる親心

私の大好きな「さだ まさし」の歌に、
「親父の一番長い日」というながーい歌があります。
生まれてきた娘の成長の風景、
娘が思春期を迎えたころの家族の様子、
やがて娘が嫁ぐ日の、父親の深い悲しみとあきらめ、喜びの情景
等々をせつせつと歌った名曲です。
歌詞の中に「親思うこころにまさる親心」というフレーズが
ありました。
私はこのフレーズの意味がわからずパソコンの中に入っている
ことわざ辞典を参照しました。
ことわざ辞典には下記のように載っていました。

記;

親(おや)思(おも)う心(こころ)にまさる親心(おやごころ)

子が親を思うよりも、親の子を思う心のほうが深いことをいう。

吉田松陰の辞世の歌の上の句で知られる。

*「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」

〔父叔兄宛吉田松陰書簡‐安政六年十月二十日〕

Koji Kotowaza Proverb Dictionary, ゥ Shogakukan 1986/故事ことわざの辞典 ゥ小学館 1986.


長い間意味を知らずに歌っていましたが、やっと、意味がわかりました。

やがて私の娘も成長して結婚する時期になれば、
この さだ まさし の歌に出てくる親父(おとうさん)
と同じ思いをする。

娘よ、どうか、今のままでいい、大きくならないでください。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


20:青空文庫

2006年7月19日

青空文庫

今から4年前の2002年にチャイヤプーム県のチュムペーという町のインターネットカフェーで
青空文庫というインターネット上で無償の文庫本を供給している組織に
巡り会った。
青空文庫で供給されている文庫本はいずれも版権のすでに切れている
古いものばかりであるが結構たのしめた。

夏目漱石はむかし文庫本で読んだ「坊ちゃん」「我輩は猫である」などを読み直したりしたが、
今読んでもさほど違和感のない文章で親しみがもてるものでした。
宮沢賢治の文章は素朴な表現ではあるが、随所に現代の文学の表現とちがっていて
判読が難しい部分が見うけられた。
芥川竜之介の文章は高貴で上品だと思ったが私には難しい部類の文学である。
それでも中学か高校の教科書に載っていた「鼻」なんかは、比較的理解しやすく
親しみやすい部類のものであった。
樋口一葉に至ると、全体に渡り、何が書いているのかまったく理解できず、
これが本当に日本を代表する文学であったのかと、疑ってしまったほどだ。
樋口の文章は読んでも全く理解できない。
樋口一葉さん、ごめんなさい。私は文語表現が理解できないのです。
菊池寛の戯曲は「恩讐の彼方に」「屋上の狂人」「父帰る」など
どれをとっても判りやすく、親しみがもてるものであった。

下記は菊池寛の「恩讐の彼方に」の最後の部分で、
もっとも感動的な場面であります。

記;

石工共が、昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。
それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから
一年六カ月を経た、延享《えんきょう》三年九月十日の夜であった。
この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、
了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。その夜九つに近き頃、
了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、
槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。
了海の朦朧たる老眼にも、紛《まぎ》れなくその槌に破られたる小さき穴から、
月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。
了海は「おう」と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、
それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺《うご》めかしたのである。
「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」
 こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。
その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。
敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。
が、しばらくすると了海は身を退《すさ》って、
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。
かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、
必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」と、
彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱《こまね》いて座ったまま、
涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋《しな》びた老僧を見ていると、
彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、
このかよわい人間の双の腕《かいな》によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、
胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、
感激の涙にむせび合うたのであった。

底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月第1刷発行

この小説を読んでから「了海和尚の彫った、青ノ洞門」が山口県の萩市ではなくて、
大分県の山国川のほとりにあることを、私ははじめて理解できました。
この小説は古い伝承をもとに菊池寛が書き上げて文芸春秋に掲載したものです。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


21:定住と漂泊

2006年7月19日

定住と漂泊

タイ国にやってきてから、すでに7年の歳月が経ってしまった。
7年前にタイ国にやってきたころは、私は未知の国で漂泊している心境だった。
今では、もう長いことタイに住みつづけていて、もはや漂泊とは思えなくなっている。
現在ではタイに定住しているといったところだ。
人間の気持ちというのはまったく気まぐれであり、定住しているときには、
漂泊に憧れ、長いこと漂泊していると、今度は定住に憧れるようになる。
タイのコーンケーンの自宅にこうして定住するようになると、
今度はどこか、私がまだ訪れたことのない場所へ漂泊したくなってしまう。
旅行も漂泊の一種だと思っている。
今後も、私は、定住と漂泊の間(はざま)を行き来する旅人であり続けるであろう。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


22:仏木君に読んでもらうだけで、それで十分幸せです

2006年7月20日

仏木君に読んでもらうだけで、それで十分幸せです

私は海外で長いこと、毎日のように多くのビジネスレターを書いていました。
多分そのせいで文章を書くのが好きになったと思います。
英文でも日本文でも同じことです。
書きたいことを頭に浮かべてから、一気に書きます。
手紙に時間をかけるのは苦手です。

仏木君が私の手紙を読んでくれるだけて、私は十分に幸せを感じています。
返信はごく短いもので十分です。
それで十分ありがたく思っています。
また全部の手紙に返信を書くこともないですよ。
例えばわずか一行の返信でも、私は多分仏木君が思っているよりも、
大きな感動を覚えています。
ありがとう。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


23:育英社

2006年7月21日

中間考査・期末考査

我々が戸畑高校の生徒であったときに、1年は3学期に別れていて
各学期に中間考査と期末考査という試験がありましたね。
年間で都合6回の試験があり、このほかに実力テストや旺文社の模擬試験
なんかがあったと記憶しています。
当時の私の住んでいた夜宮の日立社宅は、なんという幸運でしょう、
私の家は徒歩1分で戸畑高校の正門でした。
こんな近くに住んでいながら、よく忘れ物をして取りに帰ったものです。
特に体育の時間の体操服なんか忘れ物しました。
学校が近いので中間考査や期末考査のときには、南里君、仏木君をはじめ
多くの人が出入りしてここで試験勉強をしたりしていました。
仏木君は睡魔に弱くて、一人で押し入れの中で寝てしまい、明け方コロの
毛達磨地獄にあいながら、これはたまらんといって押し入れから出て来ました。
思えば、小学校6年のときに仏木君が香川県坂出市に転校しさえしなければ、
私の人生は大きく変わっていたのであります。
コロの毛達磨地獄も味会わずにすんだのです。
仏木君が押し入れの中で眠ってしまってからも、
南里君と私はまだ試験勉強を続けていました。
そのうちに南里君が社会科の教科書の音読を長々と初めて、横にいた私は
これはうるさくてかなわんというところで、思わず、
「うすさい」と怒鳴ってしまいました。
南里君怒鳴ったりしてごめんなさい。
いまでも悪いことをしたと思っています。
なんだかんだと、いろんなことがありましたが、私は南里君や仏木君と
一緒に戸畑高校で勉強することができて、大変幸せであったと
いまでも心の底より思っております。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


24:三浦先生(通称チビ太)の思い出

2006年7月21日

三浦先生(通称チビ太)の思い出

高校3年生のときには、これも運命でしょうか、
南里、仏木、松井はまた同じクラスに編入された。
担任は三浦先生で背が低いので通称(愛称)チビ太と呼ばれていた。
担当の国語の時間に、

????
????
諸国諸大名、弓矢で殺す
糸屋の娘は、目で殺す

何度も繰り返していました。

よほど、このフレーズが気に入ったのでしょう。
????
の部分は私の記憶からかき消されています。
南里君か仏木君、憶えていますか?

大学に入学してから、南里君はいなかったのかな?
原田君と仏木君と私とで
三浦先生のお宅にビールをおみやげに持って挨拶にいきました。
三浦先生の奥さんは若くてきれいな方で、ビールをご馳走になった
記憶があります。
まだ現役で教師をなされているのでしょうかね?

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


25:戸畑市営図書館の思い出

2006年7月21日

戸畑市営図書館の思い出

戸畑高校に入学したときには南里君はすでに小倉区の下曽根にある
新しい家に転宅していましたので、毎日下曽根から戸畑区の夜宮に
ある戸畑高校に通学していました。
我々は放課後の時間を利用して、よく戸畑市営図書館に行きましたが、
確か南里君の通学の経路内にこの図書館があったためでは
ないかと思います。
閲覧室には大きな机と椅子がたくさん並べられていて、とても静かな環境でしたね。
南里君はここでしばらく時間をつぶしてから、それからバスか列車(電車)
で下曽根に帰ったのでした。
私はこの静かな図書館の閲覧室で勉強するのが大好きでした。

大学2年生のときに、ドイツ語が必修科目でしたが、難しくて、
夏休みの間、朝から晩まで毎日この閲覧室にこもって
ドイツ語の勉強をした思い出があります。
当時この必修科目のドイツ語は難しくて、この科目のために留年
させられた人も多くいました。
私は「優」を取るべく努力しましたが、結局「良」しか取ることが出来ません
でした。でも留年するよりはましでした。
いま思ってもこの2年生の夏休みのドイツ語の勉強はきつかったです。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


26:サマースクールの思い出

2006年7月21日

サマースクールの思い出

沢見小学校の4年生の夏休みと5年生の夏休みに、沢見小学校が夏休みのために
用意したサマースクールというのがあったのを憶えていますか?
中村シマ子先生はサマースクールのことをサンマスクールと呼んでいましたね。
小学校5年生の夏休みのときの先生は陣内千代美(じんないちよみ)という名前
の先生で優しく、ふくよかで上品な感じのする先生でした。
まだ大学在学中で、大学の研修の一環として沢見小学校で
サマースクールの先生として、我々の夏休みの宿題を
教えてくれていました。
あまり記憶が無いのですが、仏木君もこのサマースクールに参加して
いたのではないでしょうか?
小学校5年生のときの
サマースクールでは、陣内先生と一緒にみんなで、すがおの滝に
遊びに行きました。
陣内先生の家は中原の近くの、八幡製鉄の鉱砕線のすぐそばにあり、
私は一度だけ陣内先生の家を訪問したことがあります。
優しい、私のあこがれの先生でした。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


27:business letter in Sri Lanka

2006年7月26日

business letter in Sri Lanka

どうして私がスリランカに赴任させられたのか理由はただ一つでした。
日本の下請け業者の日本人技術者を含め日本人は約100名この
プロジェクトに参加させられていましたが、
英語でコミュニケーションができる人がほとんどいなかったためです。
このころ海外のプロジェクトに派遣させられる前に英語教育が主体の
海外技術者研修が当時さかんに行われていました。
1回の研修期間は10名程度が会社から選抜され期間は3ヶ月ほどで、
研修センターに寝泊りして朝から真夜中まで英語をしこまれました。
この海外研修は10回以上行われました。
教師はもちろんすべてネイティブで母国の英語の教師の資格を有する人たちです。
たまたま会社の幹部が私の英語研修の成績を見つけて、それで
すぐにスリランカのプロジェクトに赴任させられたのです。
当時日本のODAのプロジェクトはだまって?割の利益が出たものです。
それでゼネコンは猫も杓子も海外工事に手を出していったのです。
私のスリランカでの仕事はスリランカの役所の役人との折衝が主なものでしたが、
毎日相手からくる何通ものビジネスレターを翻訳したり、またその返信や、逆に
こちらの要望をビジネスレターにおこす作業に毎日終われていました。
スリランカ人の役人はみな大学を出ていますが、彼らの授業は
英語で行われています。東南アジアはどの国も大学は英語で
行われているのです。自分の国に大学で勉強する文献がないのが主な理由です。
それで彼らの英語力は私の英語力より格段に勝っていました。
スリランカに赴任早々、私に与えられた任務の大変さを実感させられ、
非力な英語力もあいまって、ノイローゼゼぎみの生活を送っていました。
私のスリランカ赴任当初に私ができることは、私が現在もっている
英語力を駆使して話したり、ビジネスレターを書いたりすることだけでした。
文章を飾ったり、きどった文章を書いている暇はありませんでした。
赴任後しばらくしてから、
これはとても私一人の手におえないと判断した私は、会社にたのんで、
応援をお願いしました。
間組(はざまぐみ)の海外事業部に松川さんという私と同じ年の
英語のプロ(専門家)がいて、私はこの人に応援をたのみました。
私が自分が得意だと思っていた英文の添削をいやというほど受け、
おちこむ毎日でした。
私が原稿をタイプし、松川さんに添削をお願いする、
添削された文章を私がもう一度私が確認してから発行するという手順
を踏みました。
私は自分で納得(理解)できない文章は、自分の性格上で発行できませんので、
時には何度か添削が往復することもありました。
このビジネスレターの添削の作業は
約1年間続きました。
この時期は私のスリランカの赴任の時期で一番きつかった時期です。
睡眠時間を削って英語の勉強をしなおしました。
ある日、松川さんは私の現在の英語力だけでこのプロジェクトを進めることが
できると判断されました。
それで松川さんは間組の海外事業部に帰って行かれました。
私は松川さんに心よりお礼を言い、松川さんも私の気持ちを
理解してくれました。
英語の先生としては、ネイティブを含めても松川さんが一番厳しかった
ように思います。
プロジェクトの終盤には、プロジェクトのクレーム処理の最終段階で
イギリスのQS (quantity surveyor)積算士の会社からプロの積算士に来てもらい
私と一緒にスリランカの政府からお金を引き出すべく、膨大なクレームの
書類を作成しました。
この時期に私はイギリス人の作る文章と日本人の作る文章との違いを
理解することができました。
日本人の英語はどうしても、まず日本語が最初にありき、の文章ですが、
イギリス人の文章はそうでない、英語の発想の文章が多々見うけられました。
プロジェクトの竣工のときには、私は自分の専門の分野だけですが、
同時通訳までできるようになっていました。
でも、自分の分野以外では何を話しているのかよく理解することは困難でした。
映画なんかみても理解できる部分は僅かです。
英語はやっぱり難しいですね。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


28:海老津のおじいさんの思い出

2006年7月26日

海老津のおじいさんの思い出
昔、学生時代に一度仏木君と一緒に確か電車で海老津に行ったのを憶えていますか。
海老津の駅前の道を右折して、すぐに左折する長い下り坂の道
があります。この下り坂の道の入り口に大きな酒屋さんがあって、
夏のある日、大学のときだと思いますが、この酒屋でビールを一杯
「かくうち」してからいい気分になり私のおじいさんの家に行きました。

私の海老津のおじいさんは母方の祖父で熊本県の「ごかのしょう」という
とんでもない僻地出身でした。
50歳ころまでは、警察官だったらしいです。
50歳から海老津の今の百合丘団地のある場所に入植して農業を開始したのです。
土地は2町5反というので、今の2.5ヘクタールの農地を開墾所有していたのす。
最初は小さな山小屋だけがありました。電気はなくてランプの生活でした。
井戸はおじいちゃんがふんどし一つで裸になって掘ったものです。
この井戸で飲み水や風呂、洗濯すべての水をまかなっていました。
それからすぐに国道のすぐそばにおじいちゃんが自分で家を建築して
現在でも、わたしの叔母にあたる人が、そこに住んでいます。
私の母に年の離れた弟がいて、この弟の嫁さんがこの叔母さんです。
彼は日本でも難しい部類の電気の資格をもっていて、2年くらい若戸スポールで
電気の管理責任者として働いていましたが、肺結核で若干49才の若さで他界してしまいました。
今から30年前くらいから百合丘は住宅団地が開発されるようになり、
おじいちゃんは自分の土地を処分したお金で立派な大きな純日本建築様式の平屋をつくり
そこに住んでいました。
私はこの敷地から見下ろせる山田小学校の景色が大好きでした。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


29:若草山と金毘羅山

2006年7月26日

若草山と金毘羅山

戸畑市と呼んだほうがしっくり来るかもしれない。
たしか若草山という低い丘があって、
沢見小学校の遠足でよく歩いていったものだ。
我々はこの若草山におにぎりの弁当を持っていって、
弁当を食べたり、遊んだりした記憶がある。
近くには金毘羅山という山があって、この山は結構高くて、
グルグル山をまわって登る道を通って頂上まで行くには結構骨が折れた。
山を直線的に登る道もあって、この方は、
距離は短いが、急勾配で息が切れたのを思い出した。
この山の頂上には小さな祠(ほこら)があって、ここから見る
下界の景色は抜群のものであった。
金毘羅山の麓には大きな溜池があってここの堤防に出かけては、
よく吊りをした。
小さなフナや「どんこ」と呼ばれているムツゴロウの親戚みたいな
魚がよく釣れたのを思い出した。
小さなフナは長生きで、あの懐かしい球形のガラスの金魚鉢の中で
大事に育てれば1年以上生きることができた。
kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る


30:波津海水浴場

2006年7月26日

波津海水浴場

1999年の5月のゴールデンウィークに、私は海老津の叔母さんのところに出かけ、
1週間ほどお世話になりました。
仏木君のことがなつかしくなって、あの大きなコンクリートの鳥居を抜けて、
右側の狭い道を登って仏木君の父上と母上の家を訪問すべく、捜しましたが
私の記憶が悪くとうとう見つかりませんでした。
住所も電話番号ももってきていませんでしたので、残念ですが、
見つけることができなかったのです。

NHKのビジネス未来塾という番組で、海老津の波津海水浴場の脇にバイキング形式の
懐石料理店が、たいそう繁盛している様子を写していましたが、
仏木君は行ったことがありますか?
値段も手ごろで、食材をすべて地元で調達するシステムが特徴の
ユニークのお店を紹介していました。
九州に帰るとすれば、この海老津の叔母さんの場所を除いて帰る場所は
無いので、ここの懐石料理店で食事をしようかと思っています。

kiyoshi matsui from Khonkaen, Thailand

戻る

 

Contents (index_2.htm)(目次)
Top Page (index.htm)(ホームページトップへ戻る) inserted by FC2 system